血合と蛋白

 最近、週に1度はマグロの血合いを買いに行く。実家にいた頃はほとんどの蛋白源がこの血合いではあったが、一人暮らしを始めてからはめっきり食べなくなってしまった物の一つだった。これは単純に店が遠くなったこともあるが、それすらも買えぬ状況が続いていたことが主な理由かもしれない。

 実際、何もかもを捨てる前はそれなりに「食」ではなく「食べること」にも興味が向いていた。豆腐や豆乳だって味の違いを楽しむ余裕だってあったし、血合いだって生姜や酒を用いてそれなりの「料理」をしようとしていたものだ。

 しかし、今は違う。栄養面やPFCバランスは基礎資料から目を通してそれを元に計画した食事はするものの、それだけに終始するようになった。同じ「気を使う」でも、此方はより実利や実証に傾いている。少なくともこれで標準ラインの健康水準は維持できていると思う。そういえば、この間、「年齡が祟って身体を壊した」という話を人から聞いた気もするがそういうことも無い。

 ただし、だからこそこの「食」というものを俯瞰的に見られるんじゃないか、と思っている。だからこそ、今一度そうした「行為」として見直せるのではないかと思っている。食事を満たす最低ラインから見上げた時、何か違った視点が得られるんじゃないか、と。

 本当は、そうした「人間性」みたいなものを取り戻すことが一番なのだろうけども。


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