「褻ですら無いもの」について

 毎日何かを書き付ける、という習慣が身につかず、大体3~4日くらい空いたような間隔でようやく「最近書いてないな……」と重い腰を上げる、というサイクルでこの記録は出来ている。それに、「この思考は文章化したら面白いのではないか」という取っ掛かりのような物が一番のモチベーションになることは間違いない。
 この間アップされたたべラジの和食展の音声案内が当にそれであり、ここ数日の思考のネタになっていた。音声案内、というよりも発想や連想についてのコメントが興味深く、「これ思い出した」から始まる話なんかは実に面白かった。愛知でもあるらしいので、来年には是非行ってみたいところだ。
 そしてその序盤の話を聞いて、ふと思ったことがある。「晴れの褻化」が起きるならその下……つまり、「褻も毒に」なっていくのではないか?と。もしそうなら、レシピの徹底した明示が発現するのも無理もない話だと思えたので数日ほど、隙間時間に思考を回していた。

 キノコやふぐは、今でこそプロの手で安全に食べられるようにはなったが調理によっては人を殺める。そこ場所に居る人間が倒れる、という点でこれは明確な「失敗経験」だ。
 蒟蒻の原料である蒟蒻芋だって見た目こそ芋のようで、実際にじゃが芋や里芋と同様塊茎を材料とする物だが、その内実はシュウ酸カルシウムという強烈な物質の塊である。話によると素手で触れるだけでもその影響が現れ、生食した日にはいたく苦しむらしい。調べている時の真偽はともかく、興味深かったのであとでまた調べ直すと思う。ともかくこれも死には至らないまでもれっきとした「失敗」である。なまじ死なない上、材料としては他のイモ類とかなり似ている分、河豚や毒キノコよりは多くの人が苦しんだに違いない。
 知識が無い状態の山菜や筍もそれに含まれるだろう、通常では苦しまないまでも「これは美味しくないな……」となるような「味」として下位に来る物。大抵、適切な下処理が確立してから漸く「食材」と見做される。
 では、それが調理者という末端まで伝播し「個人での料理」においての失敗であったら……という思考までが一通りの導線だ。きっと一度や二度の失敗であればある程度は試行を繰り返すだろうが、それでも上手く行かない場合や第三者が存在する限り、「詳細なレシピ」に行き着いても別に不思議ではない。食材はどうだ、少々とはどれくらいだ、調理の加減は、と言い始めたら、きっと「正確な食材」「正確な重量」「正確な時間」が必要になる。
 これは、河豚の捌き方が決まっていたり毒キノコの見分け方が確立されていたり、食材の下処理が概ね同じ方法なのと同じだ。食事以外の生活をそれで動くことに慣れてしまった人々が、そんな慣れた道具を使って「褻ですら無いもの」から脱出し、かつて「ハレ」だった部分へ踏み入ろうとする行動の一つなのだろうと思う。
 だからこそ、逆に私は考えている。一度でもそれで成功条件を満たせば次からは彼らなりにその正確なレシピから脱して何かしらの工夫を始めるんじゃないか、これは成功の為の通過点ではないか、と。

 まぁ、そんなsilver bullet(特効薬)は存在してないはずだし、もしそれがあり全てを計算出来たとしても汎ゆる不確定要素から失敗する可能性を排除出来る訳でも無い。この理屈が可能なのは実験だからだよな、というのもなんとなくわかっている。難しいな、人は……


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