正対してこそ食える物

 大晦日に山と買い付けた天然ぶりのあらを、一週間ほど掛けてようやく食べ終えた。骨込みで2kg弱はあったのでこれは冷凍しないと無理だ、と判断して小分けの後冷凍庫に入れ、それを一日一食づつ、じわじわと食べて進めていたのが漸く消費出来たことになる。最初こそぶりあら特有の脂の量に押されていたが、その対処法や脂がなるべく気にならないような調理を覚えたあとは実に快適だった。最近大豆製品ばかりの生活だったからか、脂分の不足も補えた感じがする。骨取りも苦では無いし、ああいった物ならまた買ってもいい、と思えた味だった。
 私は「血合」や「あら」といった本来ならば「下」に見られがちの食材が好きだ。そしてそれには値段や含まれる栄養素等の要因も含まれているが、それとは別の一本の芯としての理由が存在している。
 ……勿論人種によってはそういう「取り去った物」しか認めないという人間だって世俗にいるだろうことも知っている上で、のことである。
 先に述べるなら「骨」及び「血」といった単語がキーになるだろうか。確かにそれを取り除いた後の謂わば「商品」としての刺身や魚は綺麗だ。勿論美味しいのはわかるし、当然食べやすいのだが何処か「食」そのものとの距離感を覚えてしまう。つまるところ「これはこのように出来ており、それを食らっている」という実感が無い。これは魚だけではなく、野菜や他の物にも言える。私にとって、綺麗に仕上がった部分は食として面白みを感じることが出来ないのだ。
 勿論、血合やあらは適切に調理した後ですらその癖や骨がふんだんに含まれ、もし適当に食べようものなら小骨が口を刺すことは間違いない。それを敬遠する人も多いし、食べられないという人がいることも知っている。
 だからといって、まだまだ味わうことの出来る物を家畜の餌へ流したり、廃棄してしまって良いのだろうか。骨の髄まで喰らい尽くし「私はお前を最後まで食らい、使い切った」と言う人間が、一人くらいいてもいいんじゃないだろうか。そりゃ骨そのものは食べられないけど、あら汁にしたら出汁にはなってるし。
 笑い話のようだが、私の食べる鮪の血合いを猫に食べさせている婦人と話をしたことがある。本人は別で買った鮪の刺身を食し、猫にはついでに買った血合いを餌としてあげるのだそうだ。「私は数年これを美味しく食べています」とはとてもじゃないが言い出せず、「この世には凄い猫もいたものだ」と思った記憶がある。
 だからこそ、せめて私だけでも捨てることなく食ってやろう。


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