崩すにもタイミングがある話

 常識を外して考える、みたいな話をよく耳にする。少なくともそれが一度も叫ばれなかった年を私は経験したことがない。

 ただ、それを崩すにも「タイミング」があると思っている……というのも、それの失敗例が実質的に「私」じゃないかという疑惑があることに他ならない。

 別の足場も固まらないままに足元の岩の目……「潜む常識」のようなものを探し、それが定まった時、えいやとノミを入れる。当然観察に比例して岩は正確に割れるのだが、同時にそこを足場としていた己も滑落していくのだ。少なくとも1つの足場は残しておくべきであった。

 大学にいた頃、A課の1Fに雑多に置いてある書類を記入後絶対にB課3F、それも随分と端にある受付に持っていくのを何回か経験した後、B課の人に「あの書類ってなんで3Fに置いてないんですか?」と何気なく問いを投げたことがある。

 私は何故かその一言で個室に呼び出され、様々な「社会人としての落ち度」の叱咤を受けた後に訳もわからぬままに謝罪して戻った記憶がある。未だに「理由があるなら教えてくれれば良かったのだ」と思わずにはいられない。

 尚、それについては「何枚持っていっても良い」「持ち運ぶことは可能」という抜け穴を発見した後は念入りな確認の後で実行に移した。

 同様、就職してからも「直接問う」ことは無くなったものの水面下でその「岩目」の奥底にあるものを深堀し、実験を続けている内に気がつけば世俗の底にいる。

 このラインを踏むと世俗は唐突に怒るのだな、みたいな境界線を頭の中で図面化してはいたのだがそれにもどうにもブレがあるようで、そんな側位努力も虚しく終わっている。

 或いは、そんなものは元から無かったのかも知れない。

 嗚呼、生きるとは難しいものだな。

 

 


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